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【映画レビュー】『トゥルーマン・ショー』を今見ると、SNS時代の自分まで少し怖くなる

映画・ドラマ

久々に『トゥルーマン・ショー』を見ました。

昔見たときは、もっとシンプルに「よくできた映画だなあ」「ジム・キャリーって、こういう切ない演技もできるんだなあ」くらいの感想だったんです。

でも、今見るとちょっと違う。

これ、笑える映画というより、今の時代のほうがじわじわ怖い映画なんですよね。

なぜなら、トゥルーマンの世界って、完全なフィクションのはずなのに、SNSや動画配信が当たり前になった今の生活と、妙に距離が近く見えてしまうからです。

もちろん、現実の私たちは24時間365日、生放送されているわけではありません。

でも「見られている自分」「誰かに評価される自分」「投稿するために整えた自分」みたいなものは、けっこう日常に入り込んでいます。

小市民としては、そこが怖い。

怖いけど、やっぱり面白い。

ジム・キャリーの笑顔が、だんだん切なく見えてくる

『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンは、海辺の町で平凡に暮らす男性です。

毎朝、近所の人に明るく挨拶して、仕事に向かって、奥さんがいて、家があって、町の人たちはみんな親切。

一見すると、かなり理想的な生活なんですよね。

ただ、その理想的すぎる町に、少しずつ違和感が出てくる。

空から照明のようなものが落ちてきたり、車の流れが妙に作為的だったり、自分の行動がラジオで実況されているように聞こえたりする。

その瞬間から、こちらも一緒に推理モードに入ります。

「あれ、これ偶然じゃないよね?」

「この町、何かおかしいよね?」

こういう“少しずつ世界のルールが崩れていく感じ”、好きなんですよ。ミステリー好きの小市民にはたまりません(笑)

しかも、主演がジム・キャリーなので、最初は明るいコメディに見える。

でも、トゥルーマンの笑顔がだんだん「明るさ」ではなく「閉じ込められた人の習慣」に見えてくるんです。

ここがうまい。

笑顔が多いほど、後半の孤独が効いてくる。

明るい町と、違和感の手がかりを見つけるキョウとミラ

“見ている側”の気楽さが、地味に刺さる

この映画の怖さは、トゥルーマンが見られていることだけではありません。

本当に刺さるのは、劇中の視聴者たちが、彼の人生を娯楽として見ているところです。

トゥルーマンが悩んでいても、怒っていても、恋をしていても、逃げ出そうとしていても、それは番組の盛り上がりになる。

そして見ている側は、悪意があるわけではない。

むしろ、応援している。

ここが嫌なんですよね。

悪人として描かれているなら、まだ距離を取れます。

でも「見守っているつもり」「応援しているつもり」「面白いから見ているだけ」という感覚なら、自分にも少し覚えがある。

たとえば、誰かのSNSを見て「最近どうしたんだろう」と勝手に心配したり、動画のコメント欄で他人の人生にあれこれ言いたくなったりする。

もちろん、それ自体が全部悪いわけではありません。

ただ、人の人生をコンテンツとして眺めることに慣れすぎると、相手が本当に生きている人間だという感覚が薄くなることはあると思うんです。

トゥルーマンは、本人だけが知らないまま人生を消費されている。

この構造が、今見るとかなり現代的です。

昔は「テレビ批評」として見えたものが、今は「SNS時代の自分の姿」にも見えてくる。

うん、これは名作が古びない理由のひとつですね。

作られた幸せは、本当に幸せなのか

この映画で一番考えてしまうのは、「安全で整った世界」と「危険でも本物の世界」のどちらを選ぶか、という問いです。

トゥルーマンの住む町は、外から見れば恐ろしい場所です。

でも本人にとっては、ずっと生活してきた場所でもある。

仕事があり、家があり、人間関係があり、毎日が回っている。

外の世界より安全で、管理されていて、トラブルも少ない。

ここだけ切り取ると、そこそこ魅力的にも見えてしまうんですよね。

小市民としては、安定は大事です。

予測できる毎日、急なトラブルが少ない生活、周囲とそこそこ調和している環境。

できれば、そういう場所で暮らしたい。

でも、その安定が「自分で選んだもの」ではなく、「誰かに設計されたもの」だったらどうか。

たとえ快適でも、自分の人生を自分で決めていないなら、それはやっぱり苦しい。

この映画がうまいのは、自由を単純にキラキラしたものとして描かないところです。

外の世界に出たら、トゥルーマンは傷つくかもしれない。

失敗するかもしれない。

誰も脚本を書いてくれないし、都合よく助けてもくれない。

それでも、自分で選ぶほうがいいのか。

この問いが、最後まで残ります。

安全な町と自由な外界を天秤にかけるキョウとミラ

奥さんの存在が、見直すほど怖い

昔見たときより、今回気になったのが奥さんの存在です。

トゥルーマンの妻は、表面的には明るくて、親切で、理想的なパートナーのように見えます。

でも、彼女は番組の出演者です。

つまり、家庭の中にいる一番近い人ですら、完全には味方ではない。

これ、かなり怖い。

家って、本来は一番無防備になれる場所じゃないですか。

仕事で疲れて帰ってきて、外向きの顔を下ろして、ようやく素の自分に戻る場所。

その場所まで演出されていたら、どこで気を抜けばいいのか分からない。

しかも劇中では、商品紹介のような不自然な会話も出てきます。

当時はテレビ番組のスポンサー表現として面白かった部分だと思うのですが、今見ると「生活の中に広告が入り込む感じ」としても読めます。

これもまた、現代っぽい。

生活、家族、会話、思い出。

本来はプライベートなものまで、いつの間にか“見せるためのもの”になっていく。

トゥルーマンの違和感は、実はかなり身近な違和感でもあるんですよね。

ラストで応援してしまう自分も、少し怖い

ラストに向かって、トゥルーマンは自分の世界の外へ出ようとします。

ここはもう、普通に応援してしまいます。

「行け、トゥルーマン」

「そこまで来たなら、もう行くしかない」

そんな気持ちになる。

でも、そこでふと気づくんです。

自分も結局、画面の前でトゥルーマンの人生を見ている側なんですよね。

劇中の視聴者と同じように、彼の選択にハラハラして、感動して、物語として楽しんでいる。

もちろん映画なので、それでいい。

でも、この作品はその構造まで含めて、こちらに突きつけてきます。

「あなたはどちら側ですか?」

「見られている側ですか?」

「見ている側ですか?」

「それとも、見られるように自分を演じている側ですか?」

うーん、面倒くさい問いを残してくる映画です(笑)

でも、その面倒くささがいい。

まとめ:今の時代に見ると、昔より怖くて、昔より優しい

『トゥルーマン・ショー』は、今見ても本当に面白い映画でした。

というより、今見たほうが刺さる人も多いかもしれません。

昔はテレビ番組やメディア批評の映画として見えました。

でも今は、SNS、動画配信、承認欲求、見られる生活、整えられた自分。

そういう現代の空気と重なって見えます。

ただ、この映画は単に「監視社会は怖い」と言っているだけではないと思います。

最後に残るのは、やっぱり「自分の人生を、自分で選ぶこと」なんですよね。

安全で、整っていて、周りから愛されているように見える世界でも、そこに自分の選択がないなら苦しい。

逆に、不安で、失敗もあって、誰も保証してくれない世界でも、自分で選んだなら前に進める。

小市民としては、いきなり大きな扉を開けて外の世界へ飛び出す勇気は、正直あまりありません。

でも、日常の小さな選択くらいは、自分で選んでいたい。

そんなことを思いました。

久々に見直してよかったです。

次に見るときは、また違うところが怖くなるんだろうなあ。

名作って、そこがずるいですね。

参照:[映画.com]トゥルーマン・ショー

ラストの扉を前に、小さな一歩を選ぶキョウとミラ

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