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ポテトチップスは「シェフの嫌がらせ」から生まれたらしい、という話を真に受けて人生を考え直してみた

食材と食文化

夜中、コンビニで買ったポテトチップスの袋を開けて、パリッとやりながらふと思ったんですよね。

「これ、よく考えたら変な食べ物だよな」と(笑)。

ジャガイモって、本来はホクホク・ねっとりが身上の野菜です。肉じゃが、ポテトサラダ、フライドポテト。どれも「やわらかさ」「ホクホク感」が主役なんですよね。なのにポテトチップスだけは真逆。極限まで薄くスライスして、水分を飛ばしきって、わざわざ「カリッカリ」にしている。ジャガイモの良さを全部捨てにいってるとも言えるわけです。

なんでこんな、ある意味でジャガイモへの裏切りみたいな食べ物が生まれたのか。調べてみたら、その誕生エピソードがあまりに人間くさくて、思わず袋を持つ手が止まりました。一説によると、シェフの「嫌がらせ」から生まれたらしいんです(マジで?)。

推理: たぶん「偶然できちゃった」系だろうと思っていた

正直、最初は軽く考えていました。

こういう定番食品の起源って、だいたい「うっかり」か「もったいない精神」のどっちかなんですよね。冷やし中華は暑い夏でもラーメンを食べてほしいという工夫から生まれたし、ピザはお皿代わりのパンを最後まで食べたのがルーツとも言われている。サンドイッチも「手を汚さず食べたい」という横着から来ている説がある。

だからポテトチップスも、てっきり「ジャガイモを薄く切りすぎちゃって、揚げたらたまたま美味しかった」みたいな、ほのぼのした失敗談だろうと踏んでいたんです。

ところが実際に語り継がれている有名な説は、ほのぼのどころか、わりとピリついていました。キーワードは「客のクレーム」と「シェフのちょっとした意地」。つまり、ポジティブな工夫ではなく、ネガティブな感情がスタート地点だった、というのが面白いところなんですよね。

客のクレームにイラッとするシェフ

解明: 「これならどうだ!」という逆ギレ説

舞台は19世紀のアメリカ、サラトガ

よく語られるのは、19世紀半ば、アメリカ・ニューヨーク州サラトガスプリングスにあったレストランでの出来事だと言われています。そこのシェフだったジョージ・クラムという人物が主役、というのが定番の筋書きです。

ある日、客がフライドポテト(当時の厚めに切った揚げ芋)に文句をつけた。「ポテトが厚すぎる」「もっと薄くしろ」と。何度作り直しても客は満足せず、突き返してくる。

それでシェフがブチっときた、というわけです。

「そんなに薄いのが好きなら、フォークで刺せないくらい薄くしてやる」と、半ば嫌がらせのつもりで、ジャガイモを限界まで薄くスライスし、カリカリに揚げて、これでもかと塩をふって出した――。これが「サラトガ・チップス」、つまりポテトチップスの原型だと伝えられています

シェフとしては「これで参ったか」のつもりだったはずなんですよね。ところがその客が、薄くてパリパリのそれを「うまい!」と大絶賛してしまった。嫌がらせのはずが、看板メニューになってしまった、という落ちです。

嫌がらせのはずが大絶賛される逆転の瞬間

ただし「諸説あり」は正直に書いておきたい

ここで参謀気質のキョウとしては、念を押しておきたいことがあります。

この「クラム逆ギレ説」、すごく良くできた話なんですが、あくまで広く語り継がれている逸話で、史実として完全に裏が取れているわけではないんですよね。クラムが腕利きの料理人として知られていたこと自体は確かなものの、「怒ったクレーマー客がいた」という劇的な部分は後世に脚色された可能性も指摘されていますし、薄いポテトの発明者には別の候補も語られているんですよね。料理の起源話というのは、語られるうちに角が立って、ドラマチックに磨かれていくものなんです。

だから「ポテチはシェフが客にキレて生まれた(断言)」ではなく、「そういう愉快な説が伝わっている」くらいの温度で受け取るのが、たぶん正しい付き合い方。とはいえ、史実かどうかはこの際あまり重要じゃない気がするんですよね。

なぜなら、この話が長く愛されて語り継がれてきたこと自体に、ひとつの真実が宿っているからです。






怒りは、なぜ発明に化けたのか

イラッとは、実はエネルギーの塊

冷静に考えると、このエピソードの構造って、けっこう普遍的だったりします。

「厚いのがイヤだと言われた」→「だったら極限まで薄くしてやる」。これ、感情だけ見れば反抗心や悪意なんですが、行動だけ抜き出すと「誰もやらなかった方向に振り切った」というイノベーションそのものなんです。

普通のシェフなら、文句を言われたら「少し薄めにしますね」と無難に対応して終わり。波風を立てず、平均点で着地させる。それが大人の対応というものです。でもこの説のシェフは、つい勢いで「限界まで」やってしまった。その「やりすぎ」が、結果的に誰も見たことのない食感を生んだわけです。

つまり、負の感情は「振り切る燃料」になる。穏やかな善意からは、なかなか「限界までやってやる」というエネルギーは出てきません。ちょっと悔しい、ちょっと見返したい――その小さなトゲみたいな感情が、人を普段の安全圏の外まで連れていくことがある。

怒りのエネルギーが発明に変換される矢印図

ただし「フィルター」を通すのが条件

とはいえ、負の感情がそのまま良い結果になるわけじゃないんですよね。

クレームに対して、シェフがただ皿を投げつけて怒鳴っていたら、それはただのトラブルで終わっていました。そうじゃなくて、怒りのエネルギーを「料理という形」に変換したから発明になった。結局のところ、負の感情も「クリエイティビティというフィルター」を通せたときだけ、いい結果に化けるんです。同じエネルギーでも、出口をどこに繋ぐかで真逆の結果になる。

これ、家のキッチンにも通じる話だと思っていて。「また同じ献立か」という小さなイラ立ちが、ふと新メニューを試すきっかけになったりしますよね。ブログやアプリをいじっている身としても同じで、「ここが地味に不便なんだよな」というモヤモヤが、何か作りはじめる一番のガソリンになっていたりする。満足しているところからは、案外なにも生まれないんですよね(笑)。

そしてもうひとつ味わい深いのが、その怒りから生まれたものが、よりによって片手でつまめる世界一気軽なスナックだったこと。重たい感情が、こんなにも軽やかな食べ物に着地したというのが、なんだか出来すぎていて好きなんです。





小市民の学び

ポテトチップスが本当にシェフの嫌がらせから生まれたのかは、正直わかりません。諸説ありです。

でも、この話が教えてくれる構造は、わりと確かなものだと思うんですよね。ダメ出しされたときの悔しさは、「振り切るための燃料」に変えられる、ということ。

イラッとしたら言い返すのもいいけれど、ちょっと立ち止まって「これ、何かのヒントにできないかな」と考えてみる。その振り切りが、平均点の毎日では出会えなかった何かに連れていってくれることがある。

それでいて、ポテチみたいにあくまで軽く。深刻に抱え込んで胃もたれするより、パリッと笑い飛ばすくらいがちょうどいいんでしょうね。

キョウの余談

実はこの記事、夜食のポテチを食べながら書き始めたら、キーボードが塩でジャリジャリになって地味に後悔しました(笑)。発明の話をしている本人が、いちばん小市民的なミスをしているという。

キョウからの次の1本

同じ「食の起源シリーズ」なら、ピザの回もおすすめです。あちらは「お皿ごと食べる」という横着から生まれた発明の話で、ポテチの「負の感情」とはまた違う、人間の合理性の面白さが味わえますよ。

次回予告

次は、ジャガイモつながりというわけでもないんですが――似ているのに意味が正反対な日本語の双子、「おざなり」と「なおざり」の境界線を、そっと解いてみようと思います。

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